神戸を思う

オシャベリな私もあまりこのことには触れなかったのだが、実は私が関西の大学に進学したのは神戸への憧れが背景にある。

高校時代「進路資料室」の掃除当番だったその日、本棚の大学の資料を眺めながら床を掃く…岩大(がんだい)がズラリ、ほか東北大など東北他県の大学、早慶や明法と東京の私立も多く並ぶ。
「さて隅っこも掃ぐべ。」と最下段を見ると関関同立の資料が僅かに並んでいた。
「ほぉ、関西か…。」同志社、立命館は知っている。関西大学もわかるが大阪のどこにあるのかは知らない。
「ん!かんさい学院?」その存在すら知らなかったが、箒を持つ手を止めてパラパラと資料をめくると、美しい芝生に建ち並ぶ洋館、部活動のページを見れば吹奏楽部が長年に渡りコンクールで好成績とある。かんせい学院(正しくは“くゎんせい”)と読むことはその時知った。
「決めた!」と、再び箒を握り関西学院を第一志望にしたのであーる。
ところが、親も担任の先生も不賛成。東北人が関西人に馴染めるはずがないとか、東京でいいじゃないかとか…当時から「へんこ」な私はそれでますます火がついた。
「西宮ってところにあるのか、ならば神戸に住んで…。」と夢は膨らむばかり。

時は過ぎいよいよ受験。新幹線を乗り継いで神戸入り。18歳の私はおっかなびっくり三宮のホテルにチェックインして、部屋で最後の追い込みをするどころか街に繰り出した。
ここが憧れていた神戸!受験しに来たことなど忘れて、生意気にもちょっと良さげな天婦羅屋で食事をしたのを覚えている。
結果桜は散り、私は浪人生となった。

しかし、この一年遅れがキイとなる。
浪人中の吹奏楽コンクールで、関西学院と並んで関西大学も金賞受賞。ならば“ついでに”関西大学も受けようとあっさり決めた。
結果、またしても関西学院は不合格、ついでに受けた関西大学に入学することになったのである。

勉強そっちのけで部活三昧の四年はあっという間に過ぎた。憧れの吹奏楽コンクール全国大会の舞台を二度踏み、生涯の友も出来て、関西大学は愛すべき母校となった。
気が付けばすっかり大阪人になっていた私は、そのまま大阪で就職。

アパレル会社の販売部門にいた私は、難波の高島屋の婦人服売場に派遣店員として立っていたが、翌年神戸に異動。
「ジーニアスギャラリー」という神戸大丸プロデュースのアパレル界大注目のファッションビルが完成し、そこに派遣されたのだ。遂に憧れの神戸でファッション界の人間として日々過ごすことになったのである。
ところが、そこで大きな挫折を味わった。人間関係で悩むこととなり退社した。
大阪の別のアパレルに再就職し、二年後に東京転勤、更に二年後に倒産解雇となった。

その二年後に独立開業したのだが、それまでは渋谷のスナックでアルバイトをし、友人宅に居候していた。その時に阪神淡路大震災は起きた。
確かに嫌な思いもしたが、私にとっては特別な思いのある神戸の街のテレビに映し出された惨状を見て、しばし呆然とした。

あれから25年か…。
ちょっと不思議なことがあった。昨日川徳(盛岡の老舗百貨店)で食材を仕入れた。普段パンなど買わぬ私が、何故だかパンが食べたくなり「塩バター」なるラーメンのような名のパンに一目惚れして購入。
店の名は「DONQ」。
そういえばドンクは神戸の会社だったな…と調べてみる。すると、ホームページに25年前の今日“本社社屋全壊”と記されていた。

パンをかじりながら神戸を思い、生かされている我が身を思う昼下がり。